皆さん、おはようございます。
スーパー…
というと、大体は「スーパーマーケット」のことを指すことが多いものです。
ところで、スーパーというと…楽曲制作者の中では
「この曲、スーパーで流れるBGMみたい!」
と言われるのは侮蔑だというツイートが度々ツイッターを賑わせています。
その理由は、「スーパーで流れるBGM=ダサい」というパブリックイメージが広まっているからです。
ではなぜ、スーパーで流れるBGMはダサいと言われてしまうのでしょうか…
スーパーで流れるBGMがダサい理由
ここでいうスーパーで流れるBGMというのは、前回の「スーパーで流れているあの曲の正体」など、特定のポイントで流れている音楽のことではなく、館内全体で流している曲のことを指します。
https://nrt-sound.net/blog-0061
ではなぜ、「スーパーで流れているBGMみたい」というコメントが侮蔑的と捉えられるほど、スーパーで流れるBGMがダサいと言われるのでしょうか。
その標的は歌もののアレンジ曲
スーパーで買物をしていると、確かに「この曲はダサい」と思うものはあります。
しかもそれは、素人が趣味で作った曲、ではなく、メロディラインといいリズムといい、どう聴いても邦楽のインストアレンジ曲です。
※インスト:インストゥルメント(楽器)の略。主に「歌を用いない楽器のみの編成」を指す。ボーカル曲だとボーカル抜きのオケ音源を指すこともある。
ではなぜ、邦楽のインストアレンジ曲は、ダサいと言われるのでしょうか。
そこには、インストアレンジをしてしまったが故に、元曲の魅力がごっそりと失われてる、ある種避けられない運命的なものがありました。
歌詞という情報が失われる
歌ものとは、メロディやリズムという音楽的要素と、歌詞という文学的要素が混ざった「歌」がその中心にあります。
スーパーで流れる曲は、その「歌」の部分をシンセメロに置き換えてしまっているので、当たり前ですが歌詞はありません。歌詞がなければ、メロディラインだけが前に出てきてしまい、言うなれば「肉付きがなく骨がむき出しの状態」になってしまうのです。
歌声が持っていた表現が失われる
歌詞もそうですが、息遣い、声の明暗、喜怒哀楽などの歌声が持っている表現力は、歌でなくなった時点で失われます。
しかも、メロディラインは抑揚もビブラートもなにもない、ただ歌声をシンセメロに差し替えただけの棒読みのような主旋律。それが歌声と同じ音量バランスで、どのパートよりも前に出てくるのですから、クオリティの低さが前面に押し出される曲になってしまいます。
原曲とのギャップに苛まれる
邦楽のアレンジなので、元ネタを知っている人が多いものです。当然ながら、原曲と比べると聴き劣りする点は否めません。ましてや、歌ものは歌がメインディッシュなのですから、メインディッシュのないフルコースは、どれだけ寂しいことになるかは、察するに余りあります。
なぜ邦楽のインストアレンジを使うスーパーが多いのかについては、おそらく直接原曲を使う上では権利関係が面倒だから、という理由の一言に尽きると思います。店ごとに著作権団体に対して申請を出すのは、スーパーの本部がやるにせよ現場がやるにせよ、非常に面倒でしょう。
インストアレンジは無理なのか
そんな事はありません。
邦楽のアレンジでも、バイオリンで演奏したり、ピアノアレンジにしたりなど、メロディラインを楽器に置き換えた場合、歌声の表現力の代替となる表現力があれば、決してダサいとは言われなくなるでしょう。
でも何より、「邦楽のインストアレンジを使おう」と安易に決めることなく、スーパーの雰囲気に合う音楽を使おう、と現場が考えるようになれば、きっと「スーパーで流すのに良さそうな曲だね!」と、スーパーで流れていそうなBGMというニュアンスが褒め言葉に変わる日も、そう遠くはありません。
これを機に、スーパーで流すBGMを考えてみてはいかがでしょうか。